チアキ・カシマとアルチュール・ランボー
※囚われのパルマRのあらゆるネタバレを含みます。
※以下すべて囚われのパルマRefrain エンディング1を前提にすすみます。
【チアキ・カシマとアルチュール・ランボー】
チアキ・カシマの好きな作家がフランスの詩人 アルチュール・ランボーであることから、彼がこの詩人のどこに惹かれたのかを、究極的な主観でもって、私的感情満載で、なんなら冷静さも欠いて、考えさせていただくことにする。
言わずもがなここから以下はただの個人的な感情の掃き溜めであり、文学研究の結果の論文とは遥かかけ離れたものである。
ジャン=ニコラ=アルチュール・ランボー
*超略歴
1854年 10月20日 フランス アルデンヌ地方シャルルヴィルに生まれる。
1865年 最も初期の散文はこの11歳の頃までに書かれていたとされる。
1866年~1869年。聖体拝受。学校で多くの優等賞を受ける。ラテン語詩が地方紙に掲載、ラテン語作文コンクールで一等賞授与など。
1870年 16歳。「遺児たちのお年玉」が『ラ・ルヴュプルトゥース』誌に掲載。
8月29日に最初の出奔。パリ駅で切符の料金不足で逮捕、留置。
10月初旬2度目の出奔。
1871年 17歳。3度目の出奔。ヴェルレーヌに手紙を書き、パリに呼ばれる。
1872年 18歳。ヴェルレーヌとパリを離れブリュッセルへ。
1873年 19歳。ヴェルレーヌとロンドン、ベルギーで暮らす。仏語教師として働く。
「異教徒の書または黒人の書」=「地獄の一季節」の草稿をかきはじめる。
同時に「イリュミナシオン」の草稿も書いていたと考えられる。
7月10日 泥酔したヴェルレーヌにより発砲、左手首に傷。
10月「地獄の一季節」を自費出版のかたちで印刷。費用が払えず倉庫にしまわれたままに。
1874年 20歳。「イリュミナシオン」の一部を書くか、少なくとも清書をしていたと考えられる。シャルルヴィルに帰宅。
1875年 21歳。ドイツ語勉強のためシュトゥットガルドへ。「イリュミナシオン」の原稿をヴェルレーヌに渡す。
ミラノで病に伏し帰国。スペイン語を学びにスペインへ行こうとしたが叶わず。
恐らく最後の詩と考えられる「夢」という小詩を、ドラエー(友人)へ宛てる。
1876年 22歳。以降詩作の形跡はなし。オランダの植民地派遣部隊に入隊、すぐに脱走。
1878年 24歳 。イタリアへ。キプロス島で採石場の現場監督として働く。
1879年 25歳。病で帰郷。文学について「もうそんなことは念頭にない」と答える。
1880年。26歳。コーヒーや毛皮を扱うバルデ商会のアデン代理店に勤務→ハラルの代理店勤務。
1882年 28歳。ハラル代理店の支配人に。
1883年 29歳。ヴェルレーヌがランボーに関する評論を掲載するが、知る由もない。
1884年 30歳。地理学会に提出した「オガデンに関する報告」がその年の協会会報に掲載。
1885年 31歳。バルデ商会をまめ、ラバデュ商会と契約しハラルからショアへ。
1886年 32歳。「イリュミナシオン」の多くの部分が『ラ・ヴォーグ』誌に掲載。同誌に「地獄の一季節」が3回にわたって掲載。
1887年 33歳。隊商を率いてショアの首都アンコベールへ。王に会い、苦心の末商談をまとめ交易を成立させる。
1888年~1890年 34~36歳。アデンの貿易商セザールティアンと契約し交易に従事。
1891年 37歳。右足に激痛。歩行困難に。関節の腫瘍により、マルセイユで手術。病状は良くならず、その年の10月にはモルヒネにより意識が混濁。妹イザベルによれば、告解したという。11月10日 ランボー死去。
*人物
子供時代は勤勉で知能が高くあらゆる教師の驚異の的であった。
性格は不安定、激越な性情、冒険好きな気質とされる。後年は自尊心が強く権威ずく、頑固な人柄であったと言われている。
友人達から信心きちがいと揶揄されるほどの生真面目な少年時代と上記のような性格を考えるに、非常に極端な人物という印象を受ける。
▫️チアキ・カシマ
本名 ユーゴ・クロイワ
* 略歴(西暦不明)
・5月13日 生まれる。両親と共にシンガポールに暮らす。
・生後まもなく両親と死別。
以来10歳までをシンガポールの施設で育つ。
観光客相手にガイドなどをし小銭を稼ぐ。外国への興味はここから。統計にも興味。
・施設訪問に来た五十鈴大使と出会う。折り鶴の折り方を教わり、自作の折り鶴を大使に渡す。
・テツオ・クロイワ氏の養子としてアメリカへ渡る。
裕福な暮らし。高い水準の教育を受けていたと思われるが、学校教育には依らず。1人での外出も極端に制限される。
・養父を刺す。その後何者かから鈍器で襲撃され、養父死亡、家は火事で全焼。日本へと渡り1人で暮らしはじめる。
・成人し、CIAと契約しフリーの諜報員となる。偽名を名乗り、行方不明に。
・任務の為、国際会議に身分を偽り潜入。任務に失敗し怪我を負い、記憶の一部を失う。
シーハイブ製薬の施設へと収容、相談員と出会う。
*人物
"一見横柄でドライな印象を受けるが、自分が許した相手に対しては守ろうとする意識が強い"(公式プロフィールより)
相談員と出会った当初の彼の印象は、冷たく、疑り深く、他人を簡単に信用しないというものであった。また、目的の為に人を利用し、また利用されてもよしとするなど現実的かつ打算的。というのはしかし彼の育った環境・職業柄後天的に身についた処世術だと感じられる。
仕事に対する姿勢や、語学の習得等興味を持った分野への勉強を惜しまないこと、収容所内でもなるべく運動能力を保つよう努めることなどから、勤勉で努力家と思われる。
相談員の差し入れたものがなんであろうと(「好みの味」でなかろうと)(ゴーヤキャラメルだろうと)(変な柄のパンツでも)無碍にしないところからは、律儀な性格や過去の貧困のせいというより性根の優しさが感じられる。
施設時代の彼のエピソードにある、体格で負けるいじめっ子相手に喧嘩で勝ち、小さな子から慕われていたことや、観光客を案内し小遣いを稼いで、小さな子供にお菓子を買ってあげていたことなどを聞くに、本来は面倒見がよく、快活で聡明、弱きものを助ける優しい人物である。
また、相談員に対する態度から、大切な人を守り、助けるためなら自分がどうなろうと構わないような自己犠牲的な愛情のかけ方をする面も伺える。その一方で、独占欲も持ち合わせ、そのバランスたるや絶妙。好きって言ったり冗談って言ったり大切な人って言ったり愛さないって言ったり勝手なところもあるよね。そんなところもすき。好きでしかない。ごめんなさい、冷静さを欠きました。
ここから書いていくしょうもないすべてのことはこの結論に基づいたものとなる。私がチアキ・カシマとアルチュール・ランボーについて考えていく際の大前提である。
チアキとランボーは同じものを求めている。私は、それがチアキがランボーに惹かれる理由のひとつであると考える。
そしてその求めるものとは「愛」である。
①ランボーと愛
アルチュール・ランボーが生きたその時代、詩人は現代のような浮世離れした存在でなく、より社会的で、人々の思想に多大な影響を及ぼす存在であった。その中で主流であったのが、キリスト教的な愛による福音に繋がるような、いわゆるロマン主義であった。
ロマン主義は、それまでの主流であった古典主義や教義主義に反するものであり、それに抑圧されてきた人間それぞれの独自性やなんやかや、ここではもうそれらを大胆にはしょって、個人の欲求とそこから生まれる苦しみを表現するようになった、と書く。ロマン主義のこと、実際わかってない。
そのような時代的背景の中で、ランボーは個人的な「愛」の追求を詩に著してきた。
ランボーの愛に対する執着と感じられるものはその母親に起因していると考えられる。
彼は陸軍大尉の父と、農場を所有する小地主の娘であった母の2人目の息子として生まれた。
しかし父は所属部隊の移動とともに勤務地にいることが多く、ほとんど別居状態から、彼が6歳の時に母と決定的な別離をした。
その前年から、母方の祖父の死亡によって母は農場の管理をすることとなっていた。
それからの母は、ランボーの言葉を借りれば“なにかに怯えたかのように”ことさら厳格に生活信条や日常的な掟、つまりキリスト教道徳を遵守するようになった。文学史上彼女の性格は「自尊心が強く、頑固」であったといわれ、ランボーによる世界への反抗は彼女へのそれから始まっていると考えられている。
ランボーは彼女から十分な愛情を与えられていなかったか、少なくとも感じられておらず「真の生活がここにはない」と詩に書くに至った。
そして「愛は再発明されなければならない」と、彼の壮大な詩のプロジェクトのひとつにあげる。
ランボーにとって「愛」は、詩と切っても切れない関係にあるのだ。
しかしながら、それは彼の詩作の中でのプロジェクトのひとつであり、彼の代表作ではキリスト教批判や、既存の規則や道徳、国家・政治権力への反抗、そしてそれを内包する自分への自戒や皮肉が大いに込められている。
つまり、私がこれから「愛」という観点のみでランボーを読むことはすでに無理のある強引な論であることは断っておきたい。
②チアキと愛
チアキは「自分だけを愛してくれる人」を「渇望していた」と自ら述べている。
思い返せば面会でも何度もそれを求めていることをほのめかしていた。
求めるもの(=愛)に関して、チアキには大きく3つのトラウマがある。
(1)両親との死別
彼の両親は、彼が生後間もない頃に事故で亡くなっている。
彼にかけていた、そしてこの先もかけつづけたであろう無償の愛情を彼は受け取ることができなかった。
人間は乳児期、他者の世話なしに生きていけない。それの多くは親の無償の愛情の上でなされるものである。だから乳児は本能的にそれを求める。求めたものが得られなかったということの中でそれは彼の最古の傷ではないだろうか。
(2)歪んだ愛情との別離
チアキは養父であるクロイワ氏を「恐れ」「逃れたくて」「刺す」ほどの脅威としている。
しかしここでひとつ、彼の発言の中で注視すべきことがある。彼はエピソード8第2面会中でその胸中の全てを明かす。その中の発言だ。
「歪んだ愛情だったけど」
「それすらも失ってしまった」
チアキは、逃れたいと思っていたクロイワ氏にさえそのひとつの希望をまだ捨てていなかったのである。
養子として引き取ったからには、親のような愛情をかけてくれるのではないか?
最初こそそう思っていたがそれはクロイワ氏の仕打ちと共にすぐに打ち砕かれたはずである。だがその後もひどい状況におかれていたというのに、この健気な少年は最後まで家族としてのクロイワ氏に望みを持っていたのだ。涙が出てくる。
だが、結果として養父は殺害され、家は火事になり彼はその希望さえ永遠に絶たれてしまう。もしかして僅かにでもあったかもしれないクロイワの情を知ることもかなわず、その証拠になる物も全てないからだ。
(3)養父による暗示
テツオ・クロイワ氏はチアキにタトゥーをいれ、年端もいかない彼に「お前の求めるものは絶対に手に入らない」と言い放つ。
クロイワ氏がどういった意図でそんな狂人めいたことをしたかを知るよしもないが、チアキが言うように傷つけ楽しむための“おもちゃ”として弄んだのかもしれない。まじ狂ってる。
先の2つのトラウマに加え、後々まで彼はこの言葉に縛られる。相談員への気持ちを自覚するまで、自分には「大切な人」(=愛)は手に入らないものであると考え、諦めてきたし、最後の面会の時までも相談員が彼のその切なる求めに応じることを拒否せざるをえなかった。
最終的に拒否はしたが、これまでも彼はその愛への渇望を無自覚的にかもしれないが端々に感じさせた。感じさせたじゃないですか。(彼の最も印象的な台詞「俺は君を愛さない」については別記事にて感想を述べたい)
以上からチアキはあるべきだったその「愛」を渇望という程激しく求めており、ランボーもまた親から感じられなかったあるべき「愛」が他の誰かによってなされなければならないということを主題のひとつに掲げている。
チアキはそういった、愛の再発明を計ったランボーの詩に共感するように心惹かれたのではないだろうか?
▫️ランボーとの出会い
シンガポールの施設時代では年齢があまりに幼過ぎ、またその生活ぶりを聞くに、この頃に読んだとは考え難い。
テツオ・クロイワ氏に養子にとられアメリカへと渡った以降のことであると考えるのが順当である。
そこで3つの可能性があげられる。
①クロイワ家での養子時代
②クロイワ氏死亡後、日本での一人暮らし時代
②の頃、チアキは茫然自失とし、感情の全てを失くした状態であった。この頃に詩への共感ができる精神状態であったかどうかは疑問が残る。
やはり、クロイワ氏のもとで暮らした孤独な少年時代に出会ったものとするのが妥当だろうか?
ただ、与えられた立派な個室でランボーを読み心動かされるユーゴのことを考えると涙が出て震えてしまう。そんなのって、いくら聡明なユーゴくんだって、10代でランボーを理解ってしまうなんて悲しすぎるよ。
そこで③をあげる。
③成人し諜報員として働きだす前後
彼とのメッセージのやりとりでは、しばしば彼が大変な読書家であることが伺える。
例「本は結構もってた」「気づかないうちに本が山のように積み上がっていて」「それが不意に崩れた時にこんなにたまってたのかと気づく」
諜報員として働き出す前後の彼は、クロイワ氏の一件から(いい方向にせよ悪い方向にせよ)立ち直り、その職業以外は普通の生活を送っていたようである。
精神的にも安定し、自立した社会生活を送る中でふと手に取ったランボーに自分と同じ「愛の求め」を感じ取り愛読していた可能性も考えられる。
しかし、須田看守が「昔読んだ~」と述べていることから少なくとも数年内ではないとも思える。やはり①というのが自然かもしれない。
▫️何語訳であったのか
チアキの母国語はシンガポールでも公用語である英語だと考えられる。(シンガポール自体はその他中国語、マレー語など多様な言語が使用されている)また、チアキが話せる言語としてあげたものにフランス語がなかったため、原語で読んだ可能性も低い。(あげた5つの言語の他にも話せる可能性はないとは言えない)
チアキがどの時期にランボーと出会ったのかが、今後の私の考察にとって非常に重要な手がかりとなるがそれも推測の域を出ない。前述の①クロイワ家での養子時代であるなら、英語で間違いないと思われる。
お気に入りである詩集『イリュミナシオン』は成立時期も曖昧で、その詩群の正しい掲載順すら定かになっていない。その為、訳者によってしばしば詩の順序が変わる。そのことはこれから探っていく、チアキが何故イリュミナシオンを気に入るかということに関係してくるが、誰のどの訳本を読んだかということが明かされない以上その切り口からの考察は不可能である。
▫️『地獄の一季節』と『イリュミナシオン』
繰り返すがチアキの好きな作家はアルチュール・ランボーであるが、中でも気に入っているのが、詩集『イリュミナシオン』である。
ランボーを好きな作家として挙げる以上、その他の多くの詩も読んでいたはずであるが、例えば『詩集(ポエジー)』の中に収められる代表作「酔いどれた船」や「母音」「遺児たちのお年玉」などの数々の詩ひとつひとつや、詩人が唯一出版の意思を持った作品とされる詩集『地獄の一季節』ではなく『イリュミナシオン』であったことに私は興味を持つ。
ここで、いささか強引ながら他の可能性を一切排除し、ランボーの作品の中で最も重要な位置づけを持ち(その短い詩人としての活動時期において全ての作品が重要であるが)、また、今日のランボー作品の出版物として最も研究される『地獄の一季節』と、『イリュミナシオン』を比較し、彼がなぜ後者をお気に入りとして挙げるのかを考えたい。
そんなものはゲームの開発チームに聞け?あるいは意味なんかない?聞こえない。私にはそんな声聞こえない。走り出したらとまらない。今年は猪年じゃないですか。猪突猛進でいきましょう。おれはぜったいに振り返ら(れ)ない。
①『地獄の一季節』
(1)製作年
1812~1873年制作
ランボーの残した作品の中で、詩人自身が出版する意思を持ち、その構成や配列などを自分の手で行った唯一の作品である。
1873年10月、自費出版として印刷されるが、著者用10部を受け取り友人達に贈るも、代金の未払いにより500部近くが印刷所の倉庫に眠ることとなった。後に1901年、発見される。
1886年9月に『ラ・ヴォーグ』誌に掲載。
自筆原稿は失われたものとされる。
(2)概要
この作品をどのような詩集であるか定義するのは非常に難しく、散文詩集というよりは告白録・自伝などに近く、戯曲の趣を見せる箇所もあり、規定のしようがないとされる。
前半部分は詩人のルーツを探ったり、またそんなものはないと結論づけたり、キリスト教を肯定したかと思えば抗ったり、後半はこれまでの作品を引用しながら振り返ったりなんだりする。
社会のモラルに対する軽蔑や盲目的なキリスト教信仰への皮肉、それらへの反抗、そして詩・文学への訣別を、愛の再開発を行おうとしたことが背景となる地獄という風景の中で、独自の「言葉の錬金術」を用い描きだした。
②『イリュミナシオン』
(1)製作年
製作年は未だ不明。現在の研究ではっきりと言えることは、この制作は『地獄の一季節』よりも前に開始され、『地獄の一季節』以降まで書き続けられたものということだけである。
しかし有力な説としてその大部分が1873年、ヴェルレーヌとの生活で円熟していく中書かれたとされている。
(2)概要
40編の散文詩と2編の自由詩からなる詩集。そのテーマは多岐に渡り、共通するのは現実社会への抗議である。また、都市についても6編テーマとしている。その文体はシュールレアリスムの先駆けともされる。
非常に重要なこととして、その表現方法のひとつ「フランス語で書かれた詩の中に外国語が用いられる」ことがあげられる。現代では日本語の小説に英語のタイトルがつけられることなど何も不思議なことではないが、当時本文がフランス語である詩に英語で題がつけられることは衝撃的なことであった。また、イリュミナシオンではしばしばドイツ語や英語が挿入される。それはランボーの旅行体験に起因すると考えらている。そういった点が当時として「新しい」作品であった。
③なぜ、チアキのお気に入りは『地獄の一季節』ではなく『イリュミナシオン』なのか?
『地獄の一季節』はランボーがその詩作によって試したことと、その挫折の過程を書いている。それはキリスト教への反抗であり、西洋文化への反抗であり、そして愛の再発明であった。
繰り返すが、『地獄の一季節』ではそれらの挫折までが描かれる。この事は詩人本人が詩に挫折した事とはイコールしないが、長年この完成をもってランボーが筆を折ったものと考えられてきた。
余談であるが、ランボーを読み解く際に過去の偉大な詩人達の影響について鑑みる事は有効だが、中でも詩人ヴェルレーヌとの関係は必ず議論される。例えば『地獄の一季節』中の「錯乱Ⅰ 狂える処女」などはヴェルレーヌとの友愛あるいは同性愛の関係とその破綻が発想の起点となっているとも言えるが、あくまでもモチーフであり当然二人の関係をそのまま書いたものではないと考える。しかしやはり、多くの詩の背景としてヴェルレーヌとの生活は無視できないものである。今後の考察に、ヴェルレーヌの存在が度々出てくることを了承願いたい。
ランボーが、このヴェルレーヌとの関係をきっかけとして、キリスト教的な愛(=隣人愛)を否定し、2人だけの関係(=他者愛)について模索したことは『地獄の一季節』を読むにあたって間違いなく感じられることである。〈神〉を否定し、〈神への愛〉を拒み、新しい〈他者への愛〉をもう一度作り出す。これが彼の「愛の再発明」である。そして幾度もの推敲の上にそれが結局成し遂げられなかったことを詩に描いた。
チアキがランボーのこの代表的詩集を読んでいないはずかなく、これにもまた心惹かれるものがあったであろう。
だが、逆説的になるが、チアキが最も気に入った作品として『地獄の一季節』をあげないということは、彼の深い心の中に愛について破綻や挫折という程の諦めはなく、まだどこか希望が残っていたのではないかと信じたい。
また、ランボーはかつて「信心きちがい」とあだ名されるほどに信心深いキリスト教徒であったが故にその反抗も実に真をついており皮肉がきいていたが、教会を遊び場にし賛美歌で健やかに居眠りするチアキにとってキリスト教は信仰するものというより穏やかな優しい思い出であって、痛烈に批判したり傾倒したりするものではなく、ランボーの思想への強い共感がなかったのではないだろうか?
では『イリュミナシオン』はどうか?
チアキがランボーに惹かれる理由として、大前提に愛を求めていることをあげた。しかし、それならば余計に『地獄の一季節』の方が気に入るのではないかと首を傾げる。しかし何度も言うが『地獄の一季節』はその事について挫折しているのである。
対して『イリュミナシオン』は、その成立年の不確定さからか有力な一説のひとつとしか言い様がないが、恐らくランボーとヴェルレーヌが最も安定した関係を築き、ランボーも詩人として成長していったと思われる1873年頃に多くを書いたと考えられている。その頃ランボーは、閉塞感や嫌悪でいっぱいだった田舎の故郷を離れパリへ行き、ベルギーへ渡り、ロンドンを旅行するなど、希望ある時期だったのではないだろうか。
彼は『イリュミナシオン』で新しく習得した言語を詩の中に入れ込み、旅したロンドンの都市の風景を詩に読んだ。
チアキは子供の頃から外国文化、外国語への関心が高かった。このことは現在の彼からも窺われ、外国語の習得やさまざまな文化を知ることが好きなのだと思われる。また、クロイワ家に引き取られたあとなどは閉塞感を感じていなかったという方が難しい状況であった。(本人が収容所と変わらない、と言うほどに閉ざされた暮らしであった)
そんなチアキは『イリュミナシオン』から外国への興味や憧れ、言語の匂い(チアキが現文で読んでいなければ、仏語に外国語が挿入される違和感自体は感じられなかっただろう)、そして今いる場所の閉塞感から解き放たれるような感覚を感じてこの詩集を好きになったのではないだろうか?
▫️まとめ
私は前提として、チアキがランボーに惹かれる理由に「愛の求め」をあげた。しかしその前提を元に書いていく中で、今はその理由はもうひとつあるのだと気がついた。今いる場所の閉塞感と、外の世界へのあこがれ。外国(語)への興味がそれだ。その結果が「お気に入りは『イリュミナシオン』」(「チーくんの秘密情報①」より)なのであろうという結論に辿り着いた。
ただ、チアキがランボーに惹かれる理由の一つは、共通した求めるもの「愛」であることは彼が気に入った作品が『イリュミナシオン』であったことと矛盾しない。成立年が曖昧である以上断定はできないが、詩人はその短い作家人生全てをかけて「愛の再開発」を達そうとしていた。それは『イリュミナシオン』制作中も例外ではないと推察する。
以上のことからわかるのは、筆者は、頭が悪い、ということである。
▫️感想
チアキのことをますます好きになったというか、すきをこえて、いとしさがましました。あと、わたしはあたまがわるいなあとおもいました。つらい。
だけどここから、私の今後の人生、チアキカシマと生きていくにあたって重要なことを書きます。
プレイ中、この日記を書くにあたって、 私はチアキはランボーなのだと思っていました。
でも違いました。
ランボーにとって「愛」は、自らがかつて信仰したキリスト教的隣人愛ではなく、他者愛であり、それを求めた末、ヴェルレーヌとの関係という歪んだ形で結実し挫折しました。
チアキは、自分だけに向けられる「愛」つまりランボーでいうやはり他者愛を渇望し、そして、相談員と出会い、(自分だけに向けられる愛を放棄し、自分から愛する事を知った後に)求めていた「愛」を手に入れました。
2人に共通するキーワードは確かに多いです。
そもそもの偽装パスポート「チアキ・カシマ」の誕生日や「チアキ」=「秋」というイメージの連想から、秋生まれのランボー的な存在だとミスリードを誘う情報満載でした。
しかしエピソード8、そしてエンディングを迎えることで、彼がランボーではないことがわかります。
上述のようにチアキは、自分だけに向けられる愛を拒否します。最後の最後で、愛されるよりも愛することを選んだのです。それはまさしく献身。与えられる愛ではなく、愛を与える幸せを知ったのです。
これをお読みの方は、既に彼の本名はよくご存知のことと思います。
ユーゴ、Hugo、侑吾
この名前を聞いた時、ヴィクトル・ユゴーを連想せずにいられたでしょうか。いられませんよね。そして同時に代表作『レ・ミゼラブル』を思い浮かべます。
もうみなまでいわずとも、でしょう。
チアキは、地獄の夫=ランボーではなく、ジャン・バルジャン=ユゴーだったのです。
私たち相談員は、狂気の処女ではなく、信仰の対象・人生の指針だったということです。
私はこのことに気がついた時、本気で震え、鳥肌がたちました。何かひとつ扉を開けたような、人生に光が差し込んだような衝撃を受けました。これまで、まるで片目を瞑って生きてきたのかと、桜井みかげのように真剣に思いました。
チアキがランボーを好きな理由なんて、本当のところわかりません。わかりませんが、私は自分の好きな人が好きなものについて考えたかった。理解出来なくても、理解しようと努力したかった。
そして、チアキのおかげで私の世界は広がりました。今はただ、お礼が言いたいです。
ありがとう、チーくん。
そして最後に、あまりにも拙すぎる考察とも言えないこの日記です。公開を迷いました。後で読み返したら何を言っているのかさっぱりわからないと思うので、他人から見たらもっとわけが分からないと思います。でもとりあえず、今このパッションだけでも、残しておきます。
読んでくれてありがとうございました。